尻草子

頭とお尻を使って読んでください。

Twitchが新しく追加したエモート"ArigatoNas"について、およびホモフォビック、男性中心主義的ゲームカルチャーに対する抗議。(走り書き)

 ツイッチが新しく追加したエモートにいわゆる「淫夢」と呼ばれるホモフォビックなネットカルチャー由来のもの("ArigatoNas")があり、憤慨している。以前からゲームカルチャーにおけるコンテンツ並びにコミュニティの男性中心主義およびホモフォビアについては数多くの問題があり、例えばツイッチでは配信中に何かゲイ男性に紐付けられるような話題やゲームのシーンが登場した際には"KappaPride"という虹色の男性の顔のエモート(詳しくは→http://rakueigaku.com/kappa/)が視聴者によって一斉に投稿されるような始末であった。ツイッチ本体がそのような問題の報告を受け認識していたかどうか(報告があった上で今回のエモート追加にいたったのであったなどということは考えたくもないが)は知らないが、今回の件でツイッチの姿勢はある程度明確になったと思う。

 つまり、ビデオゲームというカルチャーが(例えばマスエフェクトオーバーウォッチが漸進的にではあるが達成したような)性やあるいは人間の多様なあり方について語りうる可能性を示すものではなく、既存の男性中心主義的でホモフォビックな権威体制に奉仕し慰撫するためのものでしかないと表明する姿勢である。
 仮にそうでないというツイッチが自身の立場主張したいのであれば、今回追加された"ArigatoNas"のエモートを即刻削除した上で、今のホモフォビック、男性中心主義なゲームカルチャーに対する反省と改善策を提示するべきだろう。少なくとも「ゲイのツイッチユーザー」に対するメッセージを表明する義務がツイッチにはあるはずである。

  ちなみにツイッチへのメールは→(https://help.twitch.tv/customer/portal/emails/new)から遅れるらしいので皆も抗議のメールを送ろう(というか利用規約はじめ英語だらけのサイトで読めないわ書けないわで困っているので↑の内容をざっくり訳してくれる方いたらおたよりください)。

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「9月30日のろくでなし子さん参加イベントに対しての抗議、一連の経緯に関する質問」をアムネスティ・インターナショナル日本宛(info@amnesty.or.jp)に送りました。

 以下内容

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アムネスティ・インターナショナル日本様

9月30日のろくでなし子さん参加イベントに対しての抗議、一連の経緯に関する質問

 

こんにちは、Sと申します。

今回はろくでなし子さんをゲストにむかえたイベント開催に対する抗議と、開催、中止から再開催に至る経緯の「公開可能」な情報の開示をお願いしたくメールを差し上げました。

訂正部

 

1.イベントの開催に対する抗議

まず最初に、私は今回のイベントの開催、また今後もAIがろくでなし子さんを公式にゲストとして招待することに対して反対をします。

すでにいくつかの指摘があるように、ろくでなし子さんは過去にツイッターにおいて何度か民族差別的、反人権的な発言をされており、それぞれが訂正や削除もされておらず現在でもその内容が確認できます。

 

(以下がその一部です)

「(バイセクシャル自認のアカウントに対して)何度でも言う。マイノリティ特権を振りかざしてワガママを言う人、世間から気の毒がられたい人は、動物愛護団体キリスト教会にでも行って慰めてもらえばいい。わたしはボランティアじゃないですから。」

 https://twitter.com/6d745/status/764466856463773696

田代まさしさん、トイレのドアの鍵なし、ドア無し、男女共用トイレ当たり前の中国に住んだら覗き見し放題で幸せなのにね…とふと思う」

「中国は女性も自己主張激しい方が多いので、ものすごく怒られるというリスクがあります」

  https://twitter.com/6d745/status/620089662229516288

 https://twitter.com/6d745/status/620090498317856769

ファビョる

 http://togetter.com/li/915713

 

いずれも特定のジェンダーセクシャリティ、国籍、民族に対する差別の文脈に大いに依存しており、それぞれの属性を持つ方々の権利に対し大きな負の影響を与える言葉として機能しうると言えるでしょう。

公共空間において、他者の権利が著しく侵害されるような言説が個々人の権利の調整の結果として制限されます。私は現代においてその一連の手続き全体が一個の「自由」という概念、理念を指していると考えております。

過去の引用部のような自身の発言を未だに撤回していないろくでなし子さんに対して発言の場を、ましてこれまでマイノリティの人権の保護活動を積極的に行い、その歴史の積み重ねを持つアムネスティという空間において、提供するということ自体が、今回のイベントのテーマである「表現の自由」の根幹を脅かす要素となるのではないでしょうか。

よってろくでなし子さんのゲストとしての資質の是非という問題は「当日に議論を行い補完する」というような性質のものではないと思われます。

(活動の社会的な位相や政治性は大きく異なりますが、例えば「在日特権を許さない市民の会」に公共の場での発言の機会を与えるべきではない。といった話と同様の理論に基づいています。)

 

もちろん、ろくでなし子さんが警察によって不当に逮捕、拘禁された経緯は紛れもない人権侵害であり、ろくでなし子さんが取り扱う、女性器が社会においてどのように位置づけられ抑圧されているかというテーマは大いに語られるべき問題です。

その問題の一部を顕在化したという点についてはろくでなし子さんの功績を疑うことはできないでしょう。

しかし、ろくでなし子さんが取り上げた問題やその視点の正当性を積極的に認め、議論すべきであるということと、ろくでなし子さんの過去の発言に対する責任を追及すべきであるという二つの課題は同時に存在しているのです。

 

2.一連の経緯に関する質問

また、既に今回の騒動をめぐって、各所からAIに対する不満、不信感の声が上がっています。

第一には、前述したような理由によるイベント開催の是非に対する疑問です。

そして第二にはイベントの開催、中止、再開催をめぐる経緯が一部のメディアによって断片的にしか公開されていないこと、運営に対しての疑問です。

例えば、ろくでなし子さんは「メールだけでの一方的な中止のお知らせに、非常に憤りを感じています。」とツイッターにおいて発言されていますが、

  https://twitter.com/6d745/status/780671854071586816

事実であればイベント開催の是非に関わらず、その対応自体が不誠実なものであり今後の団体運営において改善されるべきであると思われます。

また現時点(2016年9月29日23時57分)においてAIのHPや公式ツイッターアカウントにおいて詳細な経緯説明などは確認できておりません、
既にネットニュースやSNSなどを通じて一連の騒動、イベントの是非に関する議論は多くの人に共有されており、AI関係者、当日イベント参加予定者のみならず、議論を共有する方々に対して情報の共有、公開をする責任がAI事務局にあると思われます。

よって今回のイベント開催、中止、再開催に関する以下の質問を行わせていただきます。下記のメールアドレスへの返信にてご回答のほどよろしくお願いいたします。
なお、回答の期限は(訂正部)2016年10月6日とさせていただきます。

また頂いたご回答については(またご回答頂けなかった場合その旨を)私個人のブログ、SNSアカウントを通じて公開させていただきます。私の個人情報保護のため、所属と名前は伏せさて頂きます。
 
S メールアドレス

1)事務局はイベント開催以前にゲストとして迎える前にろくでなし子さんについてどのようなリサーチを行われたのでしょうか。特に問題となった発言が掲載されたツイッターにおけるろくでなし子さんの活動についてはどの程度把握されていたのでしょうか。

2)イベント中止の判断にあたってはどのような基準を適用されたのでしょうか。J-CASTニュースの記事に「ろくでなし子氏の発言や主義主張に異議を唱える方々からのご意見が数多く寄せられたため、当初の予定通り企画を実施することが困難だと考え、イベントを中止いたしました」と回答されていたように、
 http://www.j-cast.com/2016/09/28279234.html?p=all
ろくでなし子さん自身に対する各所からの批判がその判断に影響したということは全くなかったのでしょうか。

3)イベント再開催を決定される判断はどのように行われたのでしょうか。最初の中止判断の理由が上記の記事の取材においてAIが回答されている通り「ろくでなし子氏の発言や主義主張に異議を唱える方々からのご意見が数多く寄せられたため、当初の予定通り企画を実施することが困難だと考え、イベントを中止いたしました」「『表現の自由と人権』というテーマが話し合える環境ではなくなったと判断しました」であったとすれば、それらのような諸問題が中止から再開催決定の期間において解決された、あるいは状況に大きな変化があったということは考えづらいと思われます。中止と再開催の判断には別々の基準が採用されていたのではないでしょうか。

4)AIは「ろくでなし子さんの過去の発言、および現在の政治的スタンスは差別的である。」という批判はどのように評価されているのでしょうか。「差別的ではない」とお答えになる場合はなぜか、「差別的である」とお答えになる場合はなぜそれでもイベントの再開催に踏み切られたのかとあわせてお答えください。

5)論点共有のため、イベント当日の議論、開催に対する批判に対してろくでなし子さんからどのような言及、参加者との議論があったのかの議事録や情報をネット上に公開してください。(イベントが開催された場合)

 

 

 

※このメールは私自身のプライバシー保護、所属先や実名を伏せるために「公開質問」という形式は取っておらず、メールの文面の一部を省略、訂正しております。ご了承ください。

北大祭ミスコン開催に対する反対意見

1    北大祭ミスコン開催と「北大祭におけるミスコン開催に反対する会

 今年の2016年6月4日(土)に北海道大学における学園祭、第58回北大祭においてミスコンの開催が決定された。https://twitter.com/MsHokudai2016  それに伴い、学内において「北大祭におけるミスコン開催に反対する会」が結成され、ツイッターアカウント@missconwwwwにおいて以下のような声明を発表した。

 

  

「毎日がミスコン」ーーーもうたくさんだ。差別ある日常を祭るな、呪え!(1)女性が絶えず美醜によって順位づけられる日常を私は生きている。男性もある 程度そうであるが、順位づける側―順位づけられる側の力関係は男女で圧倒的に非対称になっている。テレビ、広告、小説、漫画などの大衆文化や商品(2)を消費するにつけても、若く美しくありつづけることは女性にのみに課せられたノルマであると学習させられる。そのようなシビアで不当な立場から落ち ようとする女性や、若く美しくない女性、見られる側でなく見る側・順位づける側にまわろうとする女性、自分の容姿を肯定的に評価し表明する女性は(3)執拗に攻撃される。 ~ キャンパスミスコンは祭典のかたちをとるが、その祭典は、私が慣れ親しんだ性差別社会においては「非日常」にはなり得ない。ミスコンは、女性差別を看過し 承認し再生産してゆく「日常」の作法を、明るく健全な雰囲気のなかで大々的にお披露目するものであると同時に、(4)打ち毀すべき「日常」の象徴でもある。 

https://twitter.com/missconwwww/status/728801275286949888

https://twitter.com/missconwwww/status/728801852737736704

https://twitter.com/missconwwww/status/728802413155516416

https://twitter.com/missconwwww/status/728802507732844544

 

北大祭公式ページより。「現役北大生美女の頂点を決める」「外見だけでなく、内面の美しさで勝負する当日パフォーマンス」

http://hokudaisai.com/event.php#EventContent

「外見以外の要素も使う」→1ミリもましな話ではない。「外見だけでなく”内面的魅力”も評価する」は、批判をかわしながら(かわせないけど)ミスコンを やりたがる側の常套句だ。なぜかわせないかというと、外貌以外の要素が評価に関わっているのは、「毎日のミスコン」でも同じことだからである。私は、「毎日のミスコン」すなわち「女性の外貌や”内面的な魅力”を常に品評の視線に晒すという社会の在り方」を批判することの、その一部として、個別具体的な(今回の)ミスコンにたいする批判を行っている。

https://twitter.com/missconwwww/status/728807312463257600

https://twitter.com/missconwwww/status/728807946579116032

https://twitter.com/missconwwww/status/728808044600000513

 

 団体の企画に対する批判は至極当然のものであり、私はこの声明に賛同する。ミスコンは「女性の美」という社会的に規範付けられた尺度の中で特定の人間の価値を競わせるという文脈と共に存在してきた。それは単に「性の商品化」が行われてきたということだけに留まらず、「美」というそもそも定義不能な価値基準の中に、ジェンダーセクシャリティ、階級、エスニシティ、障害の有無など(さらに言えば「料理の上手さ」や「スピーチのクオリティ」なども同様に)、恣意的、権力的、差別的な構造、排除性を持つ社会の規範を還元してきたということでもある。事実、過去にアメリカのデラウェア州における"Little Miss Hispanic Delaware"というコンテストにおいて、優勝したはずの7歳の女の子が「25%以上のヒスパニックの血を有していない」という理由でグランプリを剥奪されるという事件があった。

http://www.nbcphiladelphia.com/news/local/7-Year-Old-Stripped-of-Little-Miss-Hispanic-Delaware-Crown-225662551.html

混血の度合いによってグランプリが剥奪される必要性はあったのだろうか。そもそもなぜ「ヒスパニック限定」でコンテストが開催される必要があったのだろうか。

 

2    反対する会による公開質問要求と主催側の回答

 また北大祭におけるミスコン開催に反対する会は主催者側に対して公開質問状を提出し、主催者側から回答を受け取っている。質問と回答の具体的な内容については以下のリンクを参照して頂きたい。

https://twitter.com/missconwwww/status/729785901455319040

https://twitter.com/missconwwww/status/731523975583399937

 

 

ここで私が問題にしたいのは公開質問に対する回答に併記されていた主催者の以下のコメントである。

今年度は企画立案の時点で、ジェンダーに対する配慮等が欠けていたのは事実です。不快な思いをさせてしまったこと、深くお詫び申し上げます。

しかし企画運営の準備の都合上、申し訳ありませんが今年度は中止することはできません。

いただいたご意見は来年度以降の参考にさせていただきます。

https://twitter.com/missconwwww/status/731543271940325376

 

 

 これでは居直り強盗の論理である。「準備が済んだから止めることはできない。」というのは、ある行為が倫理性、公共性に応じて許されるかどうかの判断の根拠にはなりえない。そして、とりわけ女性にとってこの問題は「来年度以降」まで保留可能な長期的なものではなく(「社会構造の問題」と聞くとそう思われる方がいるかもしれないが)喫緊の問題なのである。なぜなら、北大のミスコン関連のネット情報を検索していただければすぐにお分かり頂けるだろうと思うが、ミスコンの企画の周囲には直ちに(北大祭ミスコンにおいても既に)「女性を美的な尺度でジャッジしてもいい」という空気が (それはそもそも社会全体において存在していたものであるが、更に高い密度で) 蔓延するものであり、現にミスコンにエントリーされた参加者に対してのものや、「反対する会」に対してのセクシズムやルッキズムを含んだ嫌がらせのリプライが既に散見されているからである。

https://twitter.com/missconwwww/status/733988998972997632

https://twitter.com/sowashi_52/status/732009979213799425?lang=ja

 

 

 このような目に見える問題が既に存在しており、更に「ジェンダーに対する配慮等が欠けていた」との認識(おそらく適切なものではないだろうが)がありながらも、なんら議論を重ねようともせず、せめて「よりよいミスコン(これはいわば「よりよい、ましな差別」と同義であり、私は支持しないが少なくともこちらの方がまだ改善の余地がある)」を提示することもなく、ただただ既存の企画を断行する主催側に大学という開かれた場における企画の運営を任せることは許されないのである。

 

3    過去の国際基督教大学におけるミスコン中止の経緯と考察

 国際基督教大学(ICU)には (以下、現在ネットでアクセス可能な資料のみに基づいて経緯を説明していきたいと思う。)過去20年以上もの間ミスコンが開催されてこなかったという背景がある。ジェンダー研究センター(CGS)の創設は2003年であり、その起源についてはそれより以前であり、何故開催されてこなかったのか具体的な情報を得ることはできなかった(少なくともCGSの介入によるものだけが理由でないということは確かである)。しかし、数年に1度ほどのペースで企画自体は上がっており、その都度ボツになっていたようである。2008年にはCGSと学園祭実行委員の間で数回にわたって会議が充分な時間設けられており、その様子は以下のCGS Newsletter011掲載記事において詳しく知ることができる。

ICU祭でミスコン?!―ICU祭実行委員とCGSスタッフが、改めてミスコンについて語り合います http://web.icu.ac.jp/cgs/2009/05/icuicucgs.html

 また、2011年にはツイッターを中心にミスコンの是非の議論が展開された。

【時間逆順】ICU(国際基督教大学)でミスコン!?【下から上に向かって読んでね】

http://togetter.com/li/144076

 

 細かな論点について(また反対共同声明は素晴らしい内容であるのでそちらも参照にして頂きたい)は、企画に対する反対声明の表明から中止、またその後の顛末の経緯が詳細に記録されている、2011年度のICUのミスコン企画に反対する会のHPを参照して頂きたい。

https://sites.google.com/site/missconhantaiicu/

 2008年や2011年(おそらく他の年にもあっただろう)など複数回にわたって企画が上がっているにも関わらず、最終的には開催されなかった理由は何であろうか。上記のCGSの記事で言及されていたり、togetterでまとめられているような、いわゆる「ICUらしさ」というのも、全く評価できないというわけではないだろうが、むしろ、

  1. そもそも過去数十年開催されてなかった(慣習がなかった)
  2. CGSや学生団体と主催者側にある程度の議論、コミュニケーションの蓄積があった
  3. 卒業生などが迅速に反応し、ネットでの盛り上がりもあった(安定した反対者層が存在した)

 のような要素の方が重要なポイントであったと思われる。

 

4    今後反対するにあたっての具体的な方策について、まとめ

 北大祭ミスコンに反対するにあたって上記のような要件を望むのは難しいだろう。北大祭においてミスコンは例年開催されているようであるし*1。主催者は反対する会との議論をネグレクトする姿勢である。反対する会のツイートの最大RT数は6月1日現在70強ほどと、少なくとも2011年の反対活動に比べるとかなり小さな規模の間でしか議論されていないというのが率直な評価であろう。そして何より6月4日の開催までの時間的な猶予が圧倒的に少ない。

 この残された時間の中で少なくとも私は意志表示だけでも行おうと思う。ツイッター上で行うことによって、2011年のICU祭のときのような議論の引き起こしと、当時反対声明に賛同していた層の取り込みが期待できるのではなかろうか。ハッシュタグ「#北大祭ミスコンに反対」などと付けることによって拡散性を高めるようにしてみてはどうだろうか。正直なところ、この運動によって今年の北大祭ミスコンが即座に中止されることなどというのはまずありえないだろう。しかしまず「反対を表明した人間がいた」ということを可視化させ、支持層を取り込みながら、主催側をはじめとした「世間」に対して議論の盛り上がりをを促したい。

 

 私は一貫してミスコン、取り分けその女性差別ルッキズムに対して反対する立場だが、しかしだからといって私がそのような差別性から全くの自由というわけではない。これらの反対表明はむしろ自身の、自身の立っている「日常」の差別性を問い直すための実践であり、全ての大学関係者、あるいは市民の義務であると考えている。

*1:後で調べてみたところ北大において2015年にミスコンは開催されていなかったようである。(これも関連団体に直接事実確認を行っていないので確かではないが)09.10.11.12.14年に開催されたようで、中にはミスターコンと併置されるものもあったようである

「ズートピア」についての文句と、あと諸々の文句。

 GWにディズニー長編映画「ズートピア」を見に行ったのでその感想を。

※殴り書き(打ち)で

 面白かったです。主役二人のキャラは愛らしいですし、物語の展開的にも興味の持続が終盤まで切れなかったですし(まあ正直目新しさを感じるものではなかったけど)。でも正直テーマとか語ってる内容についてはかなり疑問が残るものだったというか、明らかに「は?」ってところ多くないですかこれ?

 この映画、なんというか「ポスト多様性」みたいなところから始まってるのが面白くて、つまり肉食動物と草食動物の捕食関係が、「支配/非支配」のような構造が最初から「解決」された状態(要するに「ズートピア」)からストーリーが始まっているんですが、その中でも温存されているような権力差やその他諸々の関係性を問題に「しようとした形跡が見られる(するんだろうなと思った)」のですが、昨今の「多様性アゲ」みたいなものなんだろうと個人的にはかなり期待度上がった状態で見てたんですよね。

 映画を見る前から「伝え聞く話(後述)」によって「「肉食/草食」というのはつまり人種のメタファーで~」みたいなことを知っていて、ただここでの「人種」というのはあくまで概念的な「人種」であって、実世界に存在する何か具体的な「○○人」といったようなものの象徴ではなく、あくまで「肉食/草食」なわけですね。その証拠にストーリー内で割りと簡単に両者の力関係が二転三転してますし(「草食動物は90%いる」ってセリフありましたがそんなものとしてちゃんと映像内に表現されてましたっけ?)。

 で、まあ主人公のウサギ(よくよく考えたら「か弱いウサギ」「ずるいキツネ」みたいなステロタイプってディズニーなり童話世界のものでしたね。まあでもバックスバニーとかいるか)のジュディが警察になるまで、なった後に置いて受ける差別的待遇って別に「ウサギだから」であって「草食動物だから」じゃないわけじゃないですか(署長はバイソンでしょ)。

 「キャロット」呼びに象徴されるような職業差別であったり、警察というマッチョでホモソーシャルな空間における関係、何より直接的に描かれてたのは「サイズ」ですよね、ズートピアの中にはネズミだけが住んでるミニサイズの街があったり、カフェスタンドにキリン専用の受け取り口があったりする中で、サイズの合わないトイレに落ちたり椅子に座ると机に頭がすっぽり隠れてしまったり(要するにそういったものが「用意されていない」ということ)、劇中「弱い」人物、ジュディ、副市長のヒツジ、カワウソの奥さん、ニック(も比較的小さい)、なんかは度々大きいキャラと同時に配置されることによって生理的なレベルでの「力関係」が表現されていたはずです。

 だのに、中盤出てくるあのマフィアのボス、あの一発ネタのためだけに(ってわけでもないけど)そういうの全部うやむやになって後半の「肉食/草食」っていうレースのあれこれ「だけ」に話が集約していくんですよね。(てか正味「どれだけデカいやつが出てくるんだ、、?」ってもはやスカしとしてすら機能しないくらい手垢まみれなギャグだし、大体今まで何人も殺してるようなやつの協力仰ぐって倫理的にもどうなんだという)

 結局そこから「肉食動物差別をするためのとある人物の陰謀」なんてものすごく狭隘かつ、現実の問題と何も(というかあまり)リンクしてない問題に話が収斂していくわけですねそこから。てか「ポスト多様性」で「肉食/草食」最初から無いよね、って最初からわかってたところに一周回って戻ってくるだけなんですよ。他の問題全部置き去りにして。

 恐らく現実の問題と直接的なリンクをさせないってのは、まあそれはそれである種の「配慮」であって正しい方向のものでもあるんでしょうし、ウェルメイドな部分でもあるんでしょうけど、例えば「肉を食わない肉食動物ってそれってつまりヴィーガンだよね?」ってのを「見せない」んですよこの映画。そういう「上手さ」っておそらくあんまり誠実なものじゃない、し、「見せない」方向だからこそ見えるものってのが尚更気になってくる。

 例えば「役所の職員が全員ナマケモノ」っていうギャグ、あれ本編のオチにも繋がってるし、僕が見たときの映画館でも観客が一番沸いてたシーン(僕も笑ったし)だったけど、ともすればかなり差別的なものとして読み取れますよね?てか、あのシーンで「ジュディが苛立つ」っていうのは明らかにその世界でもそれが「おかしなこと」であるということだし、テーマと乖離してる。あとは軽いミスリードとして使われた(それ自体に対するあれもある)「自然派動物」みたいなもの、ヨガとかヌーディストに対するまなざし、登場人物というより、観客に期待されてるもの、のアレさとか。

 話戻りますけど、何よりこの映画で腹立つのは、結局最初のほうで示された構図化し辛い権力関係が「肉食/草食問題」にスポイルされきった結果、何人ものマジョリティ側の登場人物が何も変わることなく支払うこともなく許されてるところですかね。警察署長も市長のライオンも(こいつにいたっては明らかに黒幕のアレの原因でしょ)ジュディにトラウマ植えつけたキツネも物語上の都合によってフラフラ登場して「自分に自信がなかったから」っておいおい、、っていう(その場にいた両親についても)。

 ジュディが結局警察仲間に認められたのも、そいつらになんら心境の変化があったわけでもなく(そら「ズートピア」なんだからそうだろ)、ただ単にジュディが捜査で結果を出したから、マイノリティの扱い方としてどうなんだだし、土台それ映画序盤の警察学校の短いシーケンスを引き伸ばして同じこと二度やってるだけなんですよ。最後の最後に「お前らは切符係、、嘘だよ」てあの署長絶対反省してねえし。で、「でかい」車に乗って出動する二人を見せてハッピーエンドってごまかし感半端ないでしょ。

 この映画見た直後は大いにハッピーな気分になって、なんというかキャラは「ふわふわ」だし、メインのふたりはいい奴だし、ってでもよくよく考えるとめちゃ途中から話摩り替わってるし、随所嫌な視線が入り込んでるし、でも考えるまで気づかないって「最近のディズニー」の「上手さ」の怖い部分なのかなあと。そういうやエンドロールのとき「ふわふわ」の頭を「でかい」キャラが触ってたよね。

 

 ※追記

「もふもふのボディと~」

http://www.disney.co.jp/movie/zootopia/character/character01.html

 

 ※追々記(5/16)

 どこここで書かれてる感想とか軽い批評みたいなのみたけど、褒めしかなくて驚く、大概アナ雪が引き合いに出されて、吹替えの自社パロディみたいなセリフなんかを「気の聞いたセリフ」みたいなのとして評価してるみたいな、上に(多分)書いてたようにより”普遍的””一般的”なテーマ設定が功を奏したんでしょうかね。

 それはそれとして「黒幕」の話のすり替え感に対する件のツッコミがどこでも見れてないのがちょっと恐ろしいんですが、ありましたかね?何度思い返してみてもあれスケープゴートでは。

 

 

 ~蛇足~

 映画に対する文句はこんな感じです。まあこれは文句というかなんというか、僕が英が見るまでに「伝え聞く」話の量が凄く多くてですね、特に展開的なものについての話ってのはしてなくても、読みとかテーマについて触れられると自分が見るときそれにすごい寄ってしまうってのが嫌でして、まあどれだけ話すかってのは境界を決められることじゃないですし、個々人の自由なんですが。

 このブログタイトルに「ネタバレ注意」とか書かなかったのは「ブログに書いた」という行為の意味と重複するから必要ないだろうと思ったからですね(皮肉です)。

「自覚」とお尻

「これは非常にダーティな話になってしまうのだけれど、」とか「さて。これからひどいことを書きます。」とか、その手の話が枕で実際本当に酷いこと言い出す人が結構いる(というか酷いこと言ってる人って往々にしてこの手のモードにある気がする)けど、それって「自覚」みたいなもののつもりなんだろうか。

本来「自覚」されるべきなのは「社会の中で私や彼が今どこにいて、どこに向かうべきか、どこからが踏み越えてはいけないラインか」その手のことだろう。

要するに「私」と「彼」の関係についてだ。

でもそこで行われている「自覚」って言うなれば「"お尻"から離れた"頭"が常に"お尻"を監視している。統御している。」そういうものだ。

無論、頭もお尻も「私」なのだから、「私」が「私」だけを冷静に捉えたまま、確信を持ってズンズンと境界を踏み越えていく。そんな「自覚」。

頭とお尻を従属的な関係から解き放つことなしに「彼」との邂逅は永遠に無いだろう。

「お尻を使う」という事の必要性はそういうところにあるのです。

 

ブログ作ってみました。

おはようございます。尻山尻男です。

普段はツイッター@shin0sogaikan)の方で色々喋らせてもらっていますが、

大事なこと、整理したいこと、favRTで済まされたくないこと、などがあったときのためにブログを開設してみました。

あまり頻繁に更新する予定はありませんが、こちらに何か書く際は頭とお尻を使って読んでいただけると幸いです。

よろしくお願いします。