「自覚」とお尻
「これは非常にダーティな話になってしまうのだけれど、」とか「さて。これからひどいことを書きます。」とか、その手の話が枕で実際本当に酷いこと言い出す人が結構いる(というか酷いこと言ってる人って往々にしてこの手のモードにある気がする)けど、それって「自覚」みたいなもののつもりなんだろうか。
本来「自覚」されるべきなのは「社会の中で私や彼が今どこにいて、どこに向かうべきか、どこからが踏み越えてはいけないラインか」その手のことだろう。
要するに「私」と「彼」の関係についてだ。
でもそこで行われている「自覚」って言うなれば「"お尻"から離れた"頭"が常に"お尻"を監視している。統御している。」そういうものだ。
無論、頭もお尻も「私」なのだから、「私」が「私」だけを冷静に捉えたまま、確信を持ってズンズンと境界を踏み越えていく。そんな「自覚」。
頭とお尻を従属的な関係から解き放つことなしに「彼」との邂逅は永遠に無いだろう。
「お尻を使う」という事の必要性はそういうところにあるのです。