尻草子

頭とお尻を使って読んでください。

北大祭ミスコン開催に対する反対意見

1    北大祭ミスコン開催と「北大祭におけるミスコン開催に反対する会

 今年の2016年6月4日(土)に北海道大学における学園祭、第58回北大祭においてミスコンの開催が決定された。https://twitter.com/MsHokudai2016  それに伴い、学内において「北大祭におけるミスコン開催に反対する会」が結成され、ツイッターアカウント@missconwwwwにおいて以下のような声明を発表した。

 

  

「毎日がミスコン」ーーーもうたくさんだ。差別ある日常を祭るな、呪え!(1)女性が絶えず美醜によって順位づけられる日常を私は生きている。男性もある 程度そうであるが、順位づける側―順位づけられる側の力関係は男女で圧倒的に非対称になっている。テレビ、広告、小説、漫画などの大衆文化や商品(2)を消費するにつけても、若く美しくありつづけることは女性にのみに課せられたノルマであると学習させられる。そのようなシビアで不当な立場から落ち ようとする女性や、若く美しくない女性、見られる側でなく見る側・順位づける側にまわろうとする女性、自分の容姿を肯定的に評価し表明する女性は(3)執拗に攻撃される。 ~ キャンパスミスコンは祭典のかたちをとるが、その祭典は、私が慣れ親しんだ性差別社会においては「非日常」にはなり得ない。ミスコンは、女性差別を看過し 承認し再生産してゆく「日常」の作法を、明るく健全な雰囲気のなかで大々的にお披露目するものであると同時に、(4)打ち毀すべき「日常」の象徴でもある。 

https://twitter.com/missconwwww/status/728801275286949888

https://twitter.com/missconwwww/status/728801852737736704

https://twitter.com/missconwwww/status/728802413155516416

https://twitter.com/missconwwww/status/728802507732844544

 

北大祭公式ページより。「現役北大生美女の頂点を決める」「外見だけでなく、内面の美しさで勝負する当日パフォーマンス」

http://hokudaisai.com/event.php#EventContent

「外見以外の要素も使う」→1ミリもましな話ではない。「外見だけでなく”内面的魅力”も評価する」は、批判をかわしながら(かわせないけど)ミスコンを やりたがる側の常套句だ。なぜかわせないかというと、外貌以外の要素が評価に関わっているのは、「毎日のミスコン」でも同じことだからである。私は、「毎日のミスコン」すなわち「女性の外貌や”内面的な魅力”を常に品評の視線に晒すという社会の在り方」を批判することの、その一部として、個別具体的な(今回の)ミスコンにたいする批判を行っている。

https://twitter.com/missconwwww/status/728807312463257600

https://twitter.com/missconwwww/status/728807946579116032

https://twitter.com/missconwwww/status/728808044600000513

 

 団体の企画に対する批判は至極当然のものであり、私はこの声明に賛同する。ミスコンは「女性の美」という社会的に規範付けられた尺度の中で特定の人間の価値を競わせるという文脈と共に存在してきた。それは単に「性の商品化」が行われてきたということだけに留まらず、「美」というそもそも定義不能な価値基準の中に、ジェンダーセクシャリティ、階級、エスニシティ、障害の有無など(さらに言えば「料理の上手さ」や「スピーチのクオリティ」なども同様に)、恣意的、権力的、差別的な構造、排除性を持つ社会の規範を還元してきたということでもある。事実、過去にアメリカのデラウェア州における"Little Miss Hispanic Delaware"というコンテストにおいて、優勝したはずの7歳の女の子が「25%以上のヒスパニックの血を有していない」という理由でグランプリを剥奪されるという事件があった。

http://www.nbcphiladelphia.com/news/local/7-Year-Old-Stripped-of-Little-Miss-Hispanic-Delaware-Crown-225662551.html

混血の度合いによってグランプリが剥奪される必要性はあったのだろうか。そもそもなぜ「ヒスパニック限定」でコンテストが開催される必要があったのだろうか。

 

2    反対する会による公開質問要求と主催側の回答

 また北大祭におけるミスコン開催に反対する会は主催者側に対して公開質問状を提出し、主催者側から回答を受け取っている。質問と回答の具体的な内容については以下のリンクを参照して頂きたい。

https://twitter.com/missconwwww/status/729785901455319040

https://twitter.com/missconwwww/status/731523975583399937

 

 

ここで私が問題にしたいのは公開質問に対する回答に併記されていた主催者の以下のコメントである。

今年度は企画立案の時点で、ジェンダーに対する配慮等が欠けていたのは事実です。不快な思いをさせてしまったこと、深くお詫び申し上げます。

しかし企画運営の準備の都合上、申し訳ありませんが今年度は中止することはできません。

いただいたご意見は来年度以降の参考にさせていただきます。

https://twitter.com/missconwwww/status/731543271940325376

 

 

 これでは居直り強盗の論理である。「準備が済んだから止めることはできない。」というのは、ある行為が倫理性、公共性に応じて許されるかどうかの判断の根拠にはなりえない。そして、とりわけ女性にとってこの問題は「来年度以降」まで保留可能な長期的なものではなく(「社会構造の問題」と聞くとそう思われる方がいるかもしれないが)喫緊の問題なのである。なぜなら、北大のミスコン関連のネット情報を検索していただければすぐにお分かり頂けるだろうと思うが、ミスコンの企画の周囲には直ちに(北大祭ミスコンにおいても既に)「女性を美的な尺度でジャッジしてもいい」という空気が (それはそもそも社会全体において存在していたものであるが、更に高い密度で) 蔓延するものであり、現にミスコンにエントリーされた参加者に対してのものや、「反対する会」に対してのセクシズムやルッキズムを含んだ嫌がらせのリプライが既に散見されているからである。

https://twitter.com/missconwwww/status/733988998972997632

https://twitter.com/sowashi_52/status/732009979213799425?lang=ja

 

 

 このような目に見える問題が既に存在しており、更に「ジェンダーに対する配慮等が欠けていた」との認識(おそらく適切なものではないだろうが)がありながらも、なんら議論を重ねようともせず、せめて「よりよいミスコン(これはいわば「よりよい、ましな差別」と同義であり、私は支持しないが少なくともこちらの方がまだ改善の余地がある)」を提示することもなく、ただただ既存の企画を断行する主催側に大学という開かれた場における企画の運営を任せることは許されないのである。

 

3    過去の国際基督教大学におけるミスコン中止の経緯と考察

 国際基督教大学(ICU)には (以下、現在ネットでアクセス可能な資料のみに基づいて経緯を説明していきたいと思う。)過去20年以上もの間ミスコンが開催されてこなかったという背景がある。ジェンダー研究センター(CGS)の創設は2003年であり、その起源についてはそれより以前であり、何故開催されてこなかったのか具体的な情報を得ることはできなかった(少なくともCGSの介入によるものだけが理由でないということは確かである)。しかし、数年に1度ほどのペースで企画自体は上がっており、その都度ボツになっていたようである。2008年にはCGSと学園祭実行委員の間で数回にわたって会議が充分な時間設けられており、その様子は以下のCGS Newsletter011掲載記事において詳しく知ることができる。

ICU祭でミスコン?!―ICU祭実行委員とCGSスタッフが、改めてミスコンについて語り合います http://web.icu.ac.jp/cgs/2009/05/icuicucgs.html

 また、2011年にはツイッターを中心にミスコンの是非の議論が展開された。

【時間逆順】ICU(国際基督教大学)でミスコン!?【下から上に向かって読んでね】

http://togetter.com/li/144076

 

 細かな論点について(また反対共同声明は素晴らしい内容であるのでそちらも参照にして頂きたい)は、企画に対する反対声明の表明から中止、またその後の顛末の経緯が詳細に記録されている、2011年度のICUのミスコン企画に反対する会のHPを参照して頂きたい。

https://sites.google.com/site/missconhantaiicu/

 2008年や2011年(おそらく他の年にもあっただろう)など複数回にわたって企画が上がっているにも関わらず、最終的には開催されなかった理由は何であろうか。上記のCGSの記事で言及されていたり、togetterでまとめられているような、いわゆる「ICUらしさ」というのも、全く評価できないというわけではないだろうが、むしろ、

  1. そもそも過去数十年開催されてなかった(慣習がなかった)
  2. CGSや学生団体と主催者側にある程度の議論、コミュニケーションの蓄積があった
  3. 卒業生などが迅速に反応し、ネットでの盛り上がりもあった(安定した反対者層が存在した)

 のような要素の方が重要なポイントであったと思われる。

 

4    今後反対するにあたっての具体的な方策について、まとめ

 北大祭ミスコンに反対するにあたって上記のような要件を望むのは難しいだろう。北大祭においてミスコンは例年開催されているようであるし*1。主催者は反対する会との議論をネグレクトする姿勢である。反対する会のツイートの最大RT数は6月1日現在70強ほどと、少なくとも2011年の反対活動に比べるとかなり小さな規模の間でしか議論されていないというのが率直な評価であろう。そして何より6月4日の開催までの時間的な猶予が圧倒的に少ない。

 この残された時間の中で少なくとも私は意志表示だけでも行おうと思う。ツイッター上で行うことによって、2011年のICU祭のときのような議論の引き起こしと、当時反対声明に賛同していた層の取り込みが期待できるのではなかろうか。ハッシュタグ「#北大祭ミスコンに反対」などと付けることによって拡散性を高めるようにしてみてはどうだろうか。正直なところ、この運動によって今年の北大祭ミスコンが即座に中止されることなどというのはまずありえないだろう。しかしまず「反対を表明した人間がいた」ということを可視化させ、支持層を取り込みながら、主催側をはじめとした「世間」に対して議論の盛り上がりをを促したい。

 

 私は一貫してミスコン、取り分けその女性差別ルッキズムに対して反対する立場だが、しかしだからといって私がそのような差別性から全くの自由というわけではない。これらの反対表明はむしろ自身の、自身の立っている「日常」の差別性を問い直すための実践であり、全ての大学関係者、あるいは市民の義務であると考えている。

*1:後で調べてみたところ北大において2015年にミスコンは開催されていなかったようである。(これも関連団体に直接事実確認を行っていないので確かではないが)09.10.11.12.14年に開催されたようで、中にはミスターコンと併置されるものもあったようである